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数学小景

太鼓の形を聴く-幾何学的逆問題- 勝田篤

  ものを調べるのにそのものが与えられたとき,その性質を次々調べていく手法と,逆にあらかじめ性質を列挙してそれらをもつものは何かをさがすという手法があります.前者はインプットが与えられたとき,性質というアウトプットを得るという意味で順問題,後者はアウトプットからインプットを求めるという意味で逆問題とよばれます.例えば,ものの形を調べる幾何学においてはそれぞれのものの曲がり具合(曲率)を調べるのが順問題,曲率がある条件を満たすものをみつけるのが逆問題というわけです.ここでは,逆問題の内,まずカッツが与えたものを紹介します.それは,標語的には次の言葉で表されます.


Can one hear the shape of a drum ? (太鼓の形を聴くことができるか?)


  これは,太鼓の音はその表面の膜の振動が起こしたものであり,膜の振動は固有振動に分解できるからそれが分かれば(音を聴けば)太鼓の表面の膜の形が分かるかということをたずねた問題です.まず,この問題を膜の振動(2次元)について考える前に,より簡単な弦の振動(1次元)について考えてみましょう.高校の物理で学んだように,両端が固定された弦の固有振動は,周期の半分が弦の長さの整数分の一であるサイン曲線で表されます.


sin曲線1

sin曲線2

sin曲線3


これは固有値問題とよばれる,次の方程式の 0 でない解 u = u(x) をさがす問題と同値です.弦の長さを L とします.



このときの λ を作用素 の固有値, u をその固有関数といいます.したがってカッツの問題は,固有値(または固有値と固有関数)がわかったとき,弦の形(弦は長さで決まるのでその長さ)が分かるか?ということになります.この場合,弦の長さは弦の固有振動の最長周期の半分であり,周期は固有値の平方根の逆数の 倍であるから,固有値がわかれば弦の形は分かります.言ってみれば,ギターをならすとき指がどこを押さえているかは,その音を聴けば分かるというわけです.上の方程式は2次元以上に一般化でき,それは次のようになります. Ω を平面の領域とし,固有値問題



  を考えます.ここで Δ はラプラシアンと呼ばれ,



で定義される作用素です.ある点における Δu の値はおおよそ,その点の近くでの u の値の平均とその点における u の値の差を表現しているともいえます.カッツの問題の一つの解釈としてまず,固有値のみの情報から Ω が決まるかという問題を考えてみます.固有値から分かる情報としては,Ω が円板かどうかの判定,Ω の面積,Ω の境界の長さ等があります.しかし,一般の場合に Ω が決まるかというと,そうではありません.例えばチャップマン([1])は同じ固有値を持つ二つの領域として,次のような例を与えました.



チャップマンの例

このような例は他にもいくつか知られており,その中には日本人の貢献も大きいのですが,一般に領域 Ω が具体的に与えられたとき,それとは異なるが同じ固有値を持つ領域が存在するかという判定法をさがすという問題は解決には程遠いというのが現状です.そこで,カッツの問題として固有値だけでなく,固有関数の情報も併せて考えたらどうかという疑問が生じますが,この場合は比較的簡単に Ω が決定されることが分かります.したがって,カッツの問題とは通常,固有値の情報のみ与えられた問題を指します.ここでは,固有値とプラスアルファの情報で,領域が決まるかという非自明な問題として.もう一つ,ゲルファントの問題を紹介します.まず,先に与えた方程式と似た形の固有値問題



を考えます.ここで は Ω の境界と直交する方向の微分を表します.先の問題の境界条件をディリクレ条件,今度のをノイマン条件といいます.前者は境界で固定された場合,後者は境界で自由な場合の膜の振動に対応しています.ノイマン条件でも固有値のみの情報からはディリクレ条件とほぼ同様なことが得られることが知られています.ゲルファントの問題とは


  ノイマン条件の下,固有値と固有関数の境界での値という情報から領域が決まるか?


というものです.この問題は地球,人間の身体,工業製品等の内部の様子をその表面の情報から調べるといった問題と関連しています.これに対しては1990年代に,領域だけでなく,曲がった空間である境界付リーマン多様体の場合も含めて肯定的に解決されました.しかし,問題はこれで終わったわけではなく,例えば実際に得られる物質の表面については誤差を含んだ情報しか得られませんから,初めに得られる情報がそうであっても,得られる領域の情報がある程度得られるか?といういわゆる安定性の問題も重要です.これに対しては,初めの情報が本当のものに十分近ければ得られる領域の情報も近いという定性的結果は知られていますが,具体的にどの程度近ければよいかという結果については,まだまだといったところです. 一般に順問題があれば逆問題がありますから,分野を限定することはありませんが,先に述べた実用的必要からも,多くの逆問題研究がなされています.

  [1] S.J. Chapman,Drums that sound the same,Amer. Math. Monthly, 102(1995) 124-138.