トップページ > 入学志望の皆様 > 数学小景 > 落合啓之 教授

数学小景

二千年前の宿題 落合啓之 教授

小学校中学校高等学校では、平面上の2直線は1点で交わるかあるいは平行であるかのいずれかであることを学習します(図 1)。あるいは学習しなくてもこの事実は直感的に納得できることと思います。そして、1直線とその上にない1点が与えられたとき、その点を通りもとの直線と平行な直線がただひとつ存在します(図 2)。


図1/図2


それでは次のようなちょっと奇妙な世界を考えてみましょう。その世界は普通の世界にある、一つの固定された円板の内部からなっています。そしてその円板の境界線はちょうど円(円周)になります。数学では記号を定めておく方が便利なので、この固定された円板の内部を「この世」と呼び、円板の外部を「あの世」と呼ぶことにしましょう。そして、境界には大きなヘビが一周横たわっているとします(図 3)。このヘビはとてもとても怖いのでゆっくりとそばに近づくことはできますが触れることはできません。ですから、「この世」に住んでいる者たちは「あの世」は見えないし行けないのです。


図3


「この世」での「点」は普通の世界の点と同じですが、「この世」での「直線」は、『ヘビと直角に交わるような円弧あるいは直線』である、と定められています(図 4)。このように定めたとき、「この世」でも「点」と「直線」に基づく幾何学を展開することができます。例えば、2「点」を勝手に与えたとき、その2「点」を通る「直線」がただ一つ存在することがわかります(図 5)。3つの「直線」で囲まれた図形を三角形と呼んだり、三角形の内角を考えることもできます。


図4/図5


では、「平行」に関する性質は、普通の世界でも「この世」でも同じになるでしょうか?残念ながら、そうではありません。1つの「直線」とその上にない1つの「点」が与えられたとき、その「点」を通りもとの「直線」と交わらないような「直線」は一つに限らず無数に存在します(図 6)。つまり、普通の世界と「この世」は同じではないのです。


図6


しかし「この世」でも普通の平面のように、1点を中心とした回転やある方向への移動を考えることができます(図 7)。回転したあとある方向へ移動して再び逆回転したらどうなるかなどという問題も考えられます。図形を移動することができるので、三角形やもっと他の図形の合同条件を議論することもできるのです。


図7


このような考察は遊びのように思えますが、実は、2000年以上前に著されたユークリッドの『原論』に登場した「第5公準」に対する幾多の数学者の長く深い考察から産まれたものです。この幾何学は現代数学では「非ユークリッド幾何学」と呼ばれています。「この世」は専門用語ではポアンカレ円板と呼ばれるもので、広く数学のあちこちに顔を出します。例えば、微分幾何学、複素関数論、数論、結び目理論、、、。正規分布全体のなす『統計多様体』はここで説明した「この世」の構造を持つことが知られていますし、佐藤超関数と呼ばれる関数は大きなヘビの上に、つまり「この世」と「あの世」の境目に住んでいるのです。さらに、図7で登場した「この世」の回転や平行移動は二次の行列で表わすことができ、ここから群論、調和解析への道へもつながって行きます。また、アインシュタインの相対性理論の根幹となるローレンツ空間は普通の世界ではなく、「この世」のように双曲構造を持っています。


9×9の升目の将棋盤の上に無限の世界が広がっているのと同様に、ポアンカレ円板という小さな幾何学的対象の上にも無限で多様な世界が展開されているのです。